川越、県勢で初めて甲子園出場 (朝日新聞)

(朝日新聞埼玉版2015年6月19日号より)
川越高校のグラウンドの隅に、ヒトツバタゴの木に囲まれた記念碑がある。野球部の礎を築いた故飯田亮教諭の徳をしのんだ碑だ。1931年の選抜大会で、県勢として初めて甲子園の土を踏んだのが、飯田教諭率いる旧制川越中だった。 飯田教諭は東京帝大を卒業し、1920年に川越中へ国語教師として赴任。翌年に野球部長に就いた。35年に53歳で病没するまでグラウンドを毎日訪れ、月給の多くを部費に投じたといい、戦前の夏の埼玉大会で5回の優勝を誇る常勝校に育てた。 時折、母校を訪ねるOBで川越市の川合敬三さん(83)は、練習前後で碑に一礼する現部員の姿を見ながら、戦後間もない頃に思いをはせる。 ◆ ◆ 戦況が悪化した42年末ごろ、部はいったん解散したが、終戦後に復活する。当時、在学していた川合さんは野球部に入った。「野球は花形で、みんな『川中』のユニホームに魅せられていた」。戦後の物資難で道具には苦労した。ひびの入ったバットは割れ目を釘でふさぎ、テープで補強して使った。 忘れられない試合がある。48年秋、実業団や大学野球で活躍するOBの先輩たちも加わり、飯田教諭13回忌の追悼試合が行われた。参加者の中には復員した元部員もいた。軍服からユニホームへ。白球を握る喜びをかみしめるように生き生きとプレーする姿が目に焼きついた。「やっと平和が戻った」と胸が詰まった。 ◆ ◆ 飯田教諭を慕う思いは脈々と引き継がれた。埼玉大会で優勝し、西関東代表決定戦を勝ち抜いて、夏の甲子園へ初出場した59年。中堅手だったふじみ野市の杉田文男さん(73)は飯田教諭の写真がベンチに飾られていたのを覚えている。杉田さんは「私財をなげうつなど、偉大な人格を備えていた。心技体の強化を通じた人間力の向上を目指していた」と解説する。 現チームの市石宙(かなた)主将(3年)は日々の野球ノートに、プレー内容とともに、あいさつや礼儀など「心技体」の3項目をつづる。重視しているのは心の強さ。「チームのテーマは人間力。野球への感謝の気持ちを心がけている」。没後80年となる飯田教諭の教えは、今も川越高校に息づいている。 ◇県内高校野球の草創期と選抜初出場 「川越高校野球部七十年史」や県高野連の史料によると、川越中(現・川越高)野球部の創部は第1回対外試合の記録が残る1919年ごろ。最古参とされる現在の浦和高や熊谷高など、各旧制中学で20世紀初頭にかけて野球部が次々と誕生した。19校が出場した31年の第8回全国選抜中等学校野球大会で、県勢として初めて甲子園の土を踏んだ川越中は、主将が選手宣誓を務めた。 (参考)川越高校野球部公式Web http://kawagoeob.wix.com/baseball#!iida/cee5